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新シリーズは「大川橋ものがたり」ーー 名倉流骨つぎ師、江戸を生きる

 

日本橋、柳橋と書いてきた私の橋シリーズ。次は隅田川の橋と考え、川ベりをそぞろ歩いて閃いたのが、大川橋(吾妻橋)です。

ちなみに大川端に生まれ、この川を深く愛した芥川龍之介は、

「大川は、東京という大都会を静かに流れているだけに、その濁って、皺を寄せて、気むづかしい猶太の老爺のように、ぶつぶつ小言を言う水の色が、如何にも落ち着いた、人懐かしい、手触りのいい感じを持っている・・・」と『大川の水』に書いています。

関東平野をうねり下ってきたこの天然川に、気難しくも暖かい“ユダヤの老人”を視た芥川の観察眼、まさに感動ものですね!

 

江戸をつくった家康は、大川に千住大橋しか橋を許さなかった。でも没後百五十数年の間に、五つの橋が架けられ、その最後の橋が大川橋です。西の浅草と東の本所を結び、町人文化の爛熟を援けた橋ですが、御一新の後に吾妻橋と名が変わり、“大川橋”は何かの役割を終えたのです。


▲東都名所之内 隅田川八景 吾妻橋帰帆 

▼吾妻橋金竜山遠望 共に歌川広重画

▲現在の吾妻橋

 町人文化が花開いた文化文政期に、大流行したのは歌舞伎、相撲、落語ですが、もう一つある。「骨つぎ名倉」なる接骨院です。骨つぎが?と驚くなかれ。戦がなくなって、武士と武術が力を失っていった時代、その柔術に、再生の道を見出した傑物がいた。鎌倉武士の末裔「名倉直賢」です。中国伝来の柔術には、「殺法」と「活法」を表裏一体として発展した懐の深さがある。直賢はそこに着目し、「殺法」を捨て「活法」を体系付けたのが「名倉流正骨術」。さらに“人助け”を家訓とし「医は仁術なり」の剛直な姿勢を貫いたため、江戸で大人気となりたちまち千客万来。職人から、火消し、役者、芸人、相撲取りまで押しかけた。“名倉”は、“どぶ板で名倉(なぐら)れましたと駕籠でくる”、と川柳にも詠まれ、また打身や骨折の代名詞にもなったとか。

 

そんな時代を生きる主人公は、直賢を師と仰ぐ一色鞍之介。患部を探り当てる指先に、独特のパワーを秘める、異能の骨つぎ師です。

友が長崎遊学で、最新の蘭学を収める時、自分は昔ながらの武術に励み、名倉流正骨術を学ぶ。師に反抗して千住の名倉本院を出て、大川端に名倉堂を開くが、いま一つ本意を得ない鞍之介が大川に視る顔は・・・。

 

「骨つぎ名倉」はその後、幕末を生き抜き、明治には森鴎外の『渋江抽斎』にも登場しています。医療の近代化にも敏感で、レントゲンをいち早く活用し、“整形外科”の祖とも言われ、今も千住名倉は健在です。そんな名倉家に縁もゆかりもない私ですが、骨をつぎ、人をつなぎ、時代をもつないだ歴史が面白く、小説に紡いでみたくなりました。

 

 


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コメント: 1
  • #1

    淺野 聡 (火曜日, 23 4月 2024 15:48)

    職場(新橋)の近くの本屋で先々週に予約しました。
    発売日に楽しみに読ませて頂きます。