· 

わたしのご馳走帖「何を食べても何かを思い出す」 

 

遅れた原稿を入れ、頭が真っ白でボウッとするうち、今日は七夕。そういえばこの日は例年、我が家で『七夕会』を開いていたっけ。私、大して料理自慢でもないけど、人を招いてご馳走したり、招かれたりして、美味しいものを食べるのが大好きでした。でも二十年近く続いた会も、コロナで休止になって、それっきり。ああ、あの時はあんな物を、この時は-----などと次々思い出すうち、別の折のご馳走の数々まで思い浮かび、いつしか頭の中に一冊のご馳走帖ができました。ヘミングウエイに「何を見ても何かを思い出す」という短編集があるけど、それをもじってこのタイトルは「何を食べても何かを思い出す」。

 

二十年近く前の暑い夏、高松に遊びに行くことに。今回は夫と二人旅なので、まず徳島のお遍路一番札所『霊山寺』に詣で、二番の『極楽寺』まで1・5キロ歩いてから、高松入りしようと計画。風格ある霊山寺で合掌し、スタートした時は勇気凛々。----ですがこの県道の両側は、どこまでも畑や草地が続き、木が一本もない。灼熱の炎天下で、人っ子一人、車一台通りかからない。途中に茶店や自販機があると思い込んで、水の用意もなく、汗は干上がり、喉カラカラ。死ぬかと思った。半死半生で仁王門をよろばい潜り、緑陰の境内で流れる水にありついた時は、水ってかくも冷たく神々しいものかと-----。題して(水は天地のご馳走)


親しい友人で週刊誌記者のS氏が、天城(あまぎ) に山荘を買った頃の話。彼は不倫が元で離婚し、新たな相手ともこじれ、何もかも失いそうになって、自暴自棄で逃げ込んだ山荘だ。そこへ招かれた私たち夫婦と、共通の女友達K。励ましかたがた車で天城山に分け入ると、山荘は林に埋れていた。麓の伊東まではSの四輪駆動で1時間弱。皆で山を下り、スーパーで刺身や肉の食材を買い込んで、まだ明るいうちから宴会に。皆から「こんな山中で淋しくない?」と質問攻めにあったS氏。

「大丈夫、似た事情で家庭崩壊した先生が近くにいて、意気投合したんだ。仲間がいれば、永住できそうな気がする」と、すっかりその気。皆は何だか気勢が上がらず、料理も尽きかけた。「タラの芽でも揚げるか」とSが窓を開けた時、外はまだ薄暮。窓すれすれに枝が伸びて、丈高い貧弱な木の上方に、僅かばかりの芽が残っていた。それをSが木鋏で摘みとり、サッと天ぷらに。

 

「う、美味い!」の声。タラってこんなに美味だったっけ? 新鮮な甘さの中に仄かな苦味があり、土と草の香りが口中に広がった。天城を食べたような、鮮烈な実感に包まれ、皆は弾んだ。その夜の料理は全く記憶にないが、タラの芽の味は今も舌に甦る。結局S氏は意中の女性とよりを戻し、いつか山を下りたけど、先生は……。題して(天城のタラの芽)。

 


マンションの奥さんたち数人と、“持ち寄りランチの会”をやっていた頃のこと。簡単な一品を作って我が家に集まるのだが、料理が不得手のⅯさんは、いつも隅っこでコーヒーを沸かす係に回った。彼女にはキッチンドリンカーの噂もあったが、みな冗談と思っていた。

「私、オムライスを作る」とその彼女が言い出したのは、何年後だったか。しばらくパートで寮や社食の賄い係をしていて、「レシピ通りに作り続けるうち、上手く作れるようになって今はチーフなの」だそう。その努力には“訳”があったという。彼女と夫君とお嬢さんは美男美女で、仲良し一家に見えたが、内実は違って本当は別れたいのだと----。だが勤めた経験もないまま結婚したⅯさんは、いざとなった時、高い壁にぶつかったようだ。寮や社食を転々としたのは、レシピを偸み、繰り返し作って勘どころを覚え、自立するための助走だったのだ。


その日、Ⅿさんが作ってきたオムライスは、一個づつプラのパッケージに丁寧に詰められていて美味しく、私には「はい、これご主人の分」と一食多くくれたほど。間もなく一家はマンションを出て、Ⅿさんはどこぞの社食に勤めて一人立ちした。我が家ではその見事な“レシピ通りのプロの味”を尊び、今も懐かしんでいる。 (Ⅿ夫人のオムライス)