· 

キッシュロレーヌは幸せの味

 

少し前、何げなくTVのチャンネルを回したら、料理に奮闘するけなげな男性の姿が-----。パリで、子育てしながら作家活動を続ける、辻仁成さんでした。この作家が、十年くらい前に女優の奥さんと離婚し、ご子息を引き取ってシングルファーザーになった話は有名です。この画面は、たぶん自撮りでしょう。そう広くはなさそうなキッチンで、料理をササッと美味しそうに仕上げる姿はサマになっていて、つい最後まで見ちゃったのです。

辻さんの“パパごはん”の始まりは、「母がいなくても弱音を吐かなかった息子だが、ある夜寝顔を覗いたら、涙で頰が濡れているのを見た」こと。その時、決意したそうです。自分に出来るのは料理くらい、出来る限り美味しい物を作ってやろうと。その子息も今は、大学受験を前にする高校生(この撮影の時点で)。父子関係も微妙になり、この撮影中も、奥の部屋へ何度声をかけても出てこない----。でもどんな時も、父子をとりもつ絆は“パパごはん”。特に大好きなのは、パパが得意の“キッシュロレーヌ”なんですと。

 

それは、フランスのドイツに近いロレーヌ地方の伝統料理。パイ皮に、卵、ベーコン、ホーレン草などを包んでオーブンで焼いたもの。その温かくて、滋味のある美味しさ、素朴な中のちょっとした気取り。そんな優しいテイストが、子ども心を掴んだのでしょう。

▲キッシュロレーヌ
▲キッシュロレーヌ

▲「クレイマー、クレイマー  DVD」アメリカ映画 1979年、発売/ソニー・ピクチャーズ

▲フレンチトースト
▲フレンチトースト

それで思い出したのが、映画「クレイマークレイマー」の、フレンチトースト。妻(ヘレン・メリル)に出て行かれ、にわかシングルファーザーのダスティン・ホフマンは、馴れぬ手つきで息子の好物フレンチトーストを作り始める-----。映画は大ヒットし、そのタイトルは、“父親と息子の物語”の代名詞みたいになりました。

 

私にも、キッシュロレーヌのささやかな思い出があります。

今のマンションに移って六、七年のころ、近所の奥さんたちとたまに“持ち寄りランチの会”を開いたのですが、銀行員夫人のMさんがよく、キッシュを焼いて来てくれました。みな料理上手なので、私は調子に乗って、こんな提案をしたことがあります。

「皆で料理の“相互扶助会”を作らない?」と。お客様のある時、気に入りの料理を当人に頼めば、それを作って原価に近いお値段で届けてくれる。そんな会があったらどんなに素敵だろう!-----と。

「それは便利ね」と皆は賛成したけど、結局うやむやの幻に。でもMさんは「必要な時は頼んで」と言ってくれ、私は有難く、その後美味しい手作りキッシュを、格安で、何度か頼んだのでした。

 

 


そのうち、持ち寄りランチの会は立ち消えに----。メンバーに夫婦別れや病気などが発生し、さらにMさん一家も引っ越すことになったから。何かしら問題を抱えて出て行く人が少なくない中で、こちらだけは夫君が某大銀行の幹部まで出世なされて、めでたい億ション行きでした。人柄のいいMさんは、皆に祝福されつつ、ひっそり出て行った。以来私は、Mさんに教わった“ほうれん草入りキッシュ”を、自分で作っていますが、その度に思うのです。

「キッシュロレーヌは幸せの味」と。