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七色唐がらし

友人と一年ぶりに日本橋で会うことになり、ちょっと足を伸ばして薬研堀の『大木唐からし店』へ。ここの七色唐がらしを、手土産にしようと思ったのです。ところがガーン。店の戸にこんな張り紙が。「当店は七月三十一日をもって閉店しました」

コロナ禍が、こんな小さな老舗も飲み込んだとは。この大木屋の創業は明暦二年(1656)。その翌年一月に、江戸の大半を焼いた明暦大火が起こっているから、たぶん大木屋も延焼したでしょう。この火事の教訓で大川に両国橋が架けられ、両岸に両国広小路という火除け地ができたのだから。大木屋はこの西側の広小路にあり、長きに亘って七色唐がらし(七味の呼名は上方のものだそう)を、江戸・東京の多くの名店や、ファンに送り続けてきたのです。

この店のことはずいぶん前、週刊文春連載の小林信彦のエッセイで知りました。自伝小説『日本橋バビロン』に詳しいけど、彼の生家は、両国橋際にあった老舗の和菓子店『立花屋』で、世田谷に住む今も、唐がらしを買いにはるばる出て来るという。何しろ大木屋の唐からしは、すり鉢で擦ったものを直接に店で売るので、スーパーに並ぶ全国展開の品とは、全く風味が違いますから。

 

小さい店でした。江戸の町屋のサイズは間口一間半だけど、あそこは一間くらい? 一人しか入れず、連れは外で待っていた。いつも小さな老婦人が出てきて計ってくれ、小さな缶に入れて貰うと確か三百五十円くらい。紙袋だと百八円だったか。あまり安いので申し訳なく、缶で幾つかまとめて買うと、「前に使った缶があるでしょ」と。勿体ないからと、一つは紙袋にさせられたものです。


私はよく通ったし、友人や編集者にも紹介して、喜ばれました。その一人が編集者K氏。さる中堅出版社でベストセラーを連発し、社長候補と目されながら、社内トラブルで辞職、編集プロダクションを立ち上げ、私もたまに仕事を貰っていた関係です。

このK氏、浅草生まれの“江戸っ子”を誇っていたのに、なぜか大木屋を知らなかった。ひどく悔しがるので案内すると、たちまち大ファンに。たまの打ち合わせが終わると、「モリさん、唐がらし屋、行きましょう」と連れ立ってよく大木屋へ寄りましたっけ。 仕事一直線のせいか、社内でも社外でも敵が多く嫌われ者だったようです。でも「モリさん、唐がらし屋へ----」と目を輝かせて腰を浮かす姿には、邪心のない人柄がしのばれ、そう悪い人とは思えなかった。令和になる前に病を得て亡くなったけど、その声は今も耳に残っています。

 

明暦大火の前年に始まって、コロナの年に七色の粉の製造を終えた大木屋。寂しい限りだけど、三百六十五年もお疲れ様でしたね。閉店の日は、店の前に長い長い列ができたそうです。