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鞆の浦(とものうら)へ行こう



   広島福山駅からバスで三十分。バスを降りてその町に入って行くうち、エッと驚かされました。古い商人屋敷が道に沿って点在し、そこで人々が普通に暮らしている風景----。

    いえ、“鄙びた港町”を求めて来たのは確かです。でも今日び、そう謳われるのは大抵、観光化された“なんちゃって港町” なんかが多いから、失望しないよう期待度をグッと下げていたのでした。

 

    鞆の浦は「潮待ち」の港として、古代から知られた港町です。瀬戸内海って、その構造上、満潮時や干潮時になると海流の向きが東西に変わるんですね。その境目が鞆の浦沖に当たるため、船は港に入って潮が変わるのを待った。おかげで商業が栄え、中世から江戸にかけて、商人都市として殷賑を極めたわけです。

 

 その町へ行こうと思うまで、三つのステップがありました。

 一つは、秀吉の政商神屋宗湛(博多の豪商)が、大坂への行き来の途中この港を休憩地としたという記述で、初めて鞆の浦を知ったこと。この流れで、井伏鱒二の「鞆の津茶会記」も読みました。

 

 もう一つは、鞆の浦沖で起こった坂本龍馬の「いろは丸」事件。この船で航行中に、紀州藩船と衝突し沈没。龍馬は紀州側に談判して、長崎での裁判に持ち込み、紀州藩五十五万石を相手に論戦を繰り広げ、七万両(!)の賠償金をせしめるに至るのです。その詳細を知れば、龍馬の凄さに惚れ込まずに入られませんよ。

 

 三つ目は数年前に、NHKハイビジョン特集「日本の風景を変えた男たち」を再放送で見たこと。ここで紹介された大建築家・池田武邦は、戦後の東京に、霞ヶ関ビル、京王プラザホテルなどを建て、超高層建築時代を切り拓いた、まさに「風景を変えた男」です。その彼がある日、ビル上階から降りてきて、地上で雪が降っているのに初めて気がついた。この時、身近な自然と断絶した高層ビルの建築に、疑問を抱いたそうです。それからは長崎オランダ村、ハウステンボスなど、環境共生型の建築に変わって行き、近くに茅葺の日本家屋家を建てて、住み始めたと----。

 

 この池田武邦が、番組の中でこう語りました。「今、日本の古い建築をそのまま伝えているのは、鞆の浦の商人屋敷である」と。時々この鄙びた町を訪ねて、古きを確かめていたようで、もしかしてこの建築家は、何かに行き詰まった時など、ここを訪れて“原点回帰”をなされていたのでは-----? 

 

 そんな想像が広がって、これは絶対に行って見なくちゃ、と思ったのでした。-----でもなかなか行けず、この桜の季節、神戸に所用があったのを機会に、友人を誘ってやっと足を伸ばした次第です。

 


 旅行から帰ってすぐ、新元号の発表をT Vで見ました。この時の感想は「ああ、こうしてまた時代は進んで行くのだな」ということ。そして、帰って来たばかりの旅に思いが流れました。

 

  そもそも福山って、「のぞみ」も停まる駅ですが、時刻表など諸々の関係で、神戸からは微妙に出にくい所なんですね。午後からは「こだま」や「ひかり」は全然なく、早く着きたければ「のぞみ」に四千円払わなくちゃならない。やむなく在来線を三つも乗り継いで、三時間もかけて行ったのでした。ところが結果的に、その鈍行ぶりで見た車窓の桜咲く田舎の風景が、あの鞆の浦に漂う鄙びた情緒に、すっぽりと繋がったのです。地上に降る雪を見て、建築の方向を変えた建築家。その話を考えていると、こうも想像されました。性急に進んでいく時の流れの中で、あの港町は、今も潮待ちの港であり続けていると。