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文豪鷗外と麦飯男爵

 

今年は森鴎外没後百年で、記念館では色々な催しがあるようです。

でもだから鷗外のサイトを開いたわけじゃなく、明治の頃“麦飯男爵”と呼ばれた医師・高木兼寛を調べようとたら、鷗外の名が連なって出て来ちゃったんです。そう、この二人には知る人ぞ知る、医学史の末代まで残る深い確執があったんですね。それは脚気です。

原因不明で特効薬もないこの病いは、“江戸患い”と呼ばれながら、江戸が終わっても急増し続け、“国民病”にまでなった。特に軍人に多かったため、海軍軍医だった高木は、陸軍軍医の鷗外と、その原因を巡って“脚気論争”を繰り広げたのです。 

 

高木はイギリス留学で、英海軍に脚気がないことに注目。原因は食物にあると考え、兵食に麦飯を混ぜて、脚気が激減するのを確認。さらに洋食のカレーを脚気予防食として、メニューに取り入れた。

だが一方の鷗外は、ドイツ留学で細菌学の隆盛を目の当たりにし、脚気は“脚気菌”によるものと判断。「白米は栄養豊富な完全食で、日本人の力の源である。高木はイギリス流の偏屈学者。麦飯に薬効があるという説に、何の科学的根拠もない」とバッサリ。

  

陸軍で麦飯は禁止になり、喜んだのは兵士達。あの貧乏くさい麦飯を免れ、真っ白な銀シャリにありつけるのだ。それは士気にも関わるとされ、陸軍には強力な白米支持者が少なくなかったという。しかし日清戦争で、陸軍の脚気死亡者は四千人以上、日露戦争では二万七千人以上に及ぶ大惨事に。対する海軍は日清でゼロ、日露で三人__。だが鷗外は死ぬまで自らの間違いを認めなかったのです。

▲森鴎外
▲森鴎外
▲高木兼寛(たかき かねひろ)
▲高木兼寛(たかき かねひろ)

▲ウィリアム・ウィリス

▼鹿児島市山下町に建つウィリアム・ウィリスと高木兼寛の銅像。

ここで私が書きたかったのは、次号の『柳橋ものがたり⑨』でも取り上げた、イギリス人医師ウィリアム・ウィリスのこと。最先端の英米医学を身に付けた彼は、英国公使館付きの医官として、激動の日本に上陸。公務のかたわら医療の遅れた政府軍に従軍し、敵味方の区別なく、無償で多くの命を救った熱血医師でした----。明治政府はその偉業への返礼として、『医学所』(後の東大医学部)の院長の座をウィリスに贈った。ところがこの英米系医学の優遇に、長崎でポンペに学んだ蘭方医らは、黙っていなかったのです。

 

「日本の医学の源は、徳川幕府以来のドイツ系医学にある」と主張。「臨床中心の英米系医学は頼りなく、学究的なドイツ系医学を主流にするべき」として政府高官を巻き込んで画策し、政府はドイツ系医学に舵を切ることになる。職を追われたウィリスは、西郷隆盛に招かれ『鹿児島医学校』校長として鹿児島へ。だがここでも奮闘し、優秀な弟子を世に送り出した。その一人が高木兼寛。麦飯で脚気を追放して“麦飯男爵”と呼ばれ、後に慈恵医大病院を創立することになる----。

 

維新時の政争に絡んで苦杯を喫したウィリス医師。その弟子が、後の脚気論争で臨床精神を発揮し、図らずもドイツ系医学の雄に一矢報いた形です。そうと知ってか、高木はこんな名言を残しています。

「病気を診ずして、病人を診よ」

 


 

鷗外の墓は、東京三鷹市と生まれ故郷の島根県(石見国)津和野にあります。明治の文豪で軍医総監でもあったこの人が、死の三日前、こう遺言したといいます。

「余ハ 石見人森林太郎トシテ 死セント欲ス----」

(ゆえに墓には森林太郎の名の他、一切の文言も彫らないでほしい)

 

名誉も肩書きもない、一介の石見の人として死にたい、というこの言葉の中に、浮世のしがらみにまみれた脚気問題への深い苦渋と贖罪が込められている-----そう私には感じられてなりません。

遠い昔、私はその石見の墓に詣でたことがあり、名前だけが掘られた、苔むして蒼然とした古武士みたいな墓を、今もありありと覚えています。

 

『柳橋ものがたり⑨満天の星』についてはおしらせへ。

▲鴎外の墓のある島根県津和野町の永明寺(ようめいじ)▼森林太郎(森鴎外)の墓