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風雲品川宿

 

ポカポカ陽気に誘われて、「東海道品川宿」をウオーキング。この町を背景に短編を書こうと思い立っての、久びさの品川です。

 

 品川といえば、京急北品川駅の海側に旧東海道が通り、この沿道に宿場町の面影を残す町並が長く伸び、その隣にはかつて“海”があった-----というイメージがあります。明治に作られた鉄道唱歌にも、「窓より近く品川の 台場も見えて波白く 海のあなたに薄がすむ 山は上総か房州か」と唄われてるし----。 この町を思い浮かべる時、いつも一緒に海が思い浮かぶけど、 「----海がわは、今はすっかり埋め立てられて海には遠くなった」 と品川生まれの随筆家岩本素白が、すでに昭和三十三年に書いています。埋立ては昭和初期から始まっていて、この町で海が見えたことなど、現代ではほどんどないはずですよね。

 

でも今回は作品を書く上で船宿や海景色を見ておきたく、ま、そのうち何どこかで見えるだろうと思ってたけど、どこからも見えてこない。そこで海の方角へずんずん突き進んでみたら、「天王洲橋」なる橋に出た。あれ?と橋の向こうを仰ぐと、洒落たギンギラギンの超高層ビル街が燦然と立ちはだかって、びっくり仰天。あれが現代の最先端遊戯スポット、“天王洲アイル”か。近くにあるとは思っていたけど、幕末のどさくさで急きょ作られた国防拠点お台場にあったとは、知っているようで知らなかった。

▲江戸名所 品川の駅海上/作者:歌川広重、嘉永6(1853)年▼東海道五拾三次 品川・日之出/作者:歌川広重 共に国立国会図書館所蔵
▲江戸名所 品川の駅海上/作者:歌川広重、嘉永6(1853)年▼東海道五拾三次 品川・日之出/作者:歌川広重 共に国立国会図書館所蔵

▲江戸名所 品川の駅海上/作者:歌川広重、嘉永6(1853)年▼東海道五拾三次 品川・日之出/作者:歌川広重 共に国立国会図書館所蔵

◀岩本素白(いわもと・そはく)

1883(明治16)年~1961(昭和39)年 

国文学者・随筆家

「岩本素白全集」は春秋社から全3巻刊行


品川遊郭の遊女(あそびめ)/作者:鳥居清長 天明4(1784)年 千葉市美術館所蔵

▲▼現在の品川運河・天王洲界隈
▲▼現在の品川運河・天王洲界隈

収穫だったのは、天王洲橋から引き返す途中に運河があり、その沿道に船宿が軒を並べていたこと。道路に面した表玄関から客は入り、裏に繋留されている遊覧船に、背後の出口から乗り込む仕組みです。表側から覗いたり運河の対岸に回ったりして、古い町並みを見たし、何より当地に残る海の痕跡を見られて、良かった!

 

品川を南北に走る旧東海道は、北から徒士新宿、北品川、本宿、南品川。有名な“品川遊郭”は、妓楼『土蔵相模』のあった徒士新宿の辺りです。桜田門外で井伊大老を襲撃した水戸浪士も、御殿山の英国公使館を焼き払った高杉晋作ら吉田松陰門下の面々も、その前夜にここに登楼して浩然の気を養い、出発したという。

 江戸への出入り口だった品川には、妓楼あり、呑み屋あり、鉄火場あり。幕末には薩長方も幕府方も、さほど広くないこの町で一夜の恋を語らい、酒を呑み、天下国家を論じ、その多くは維新を見届けずに散って行った。このように犬猿の仲の客たちと、上手にわたり合って生きた品川宿の人々。一時代の滅亡と再生の歴史の一端を担い、その役割を終えた今も、その発展を静かに見続けている町。やはり品川には見えない海がある、と感じてしまう私でした。

 

そんな町にも、コロナの影が。「商店街の皆さん、コロナ感染拡大防止のため、時短にご協力を-----」との広報車の声が流れて行く。私はくたびれて一息つきたくなったけど、そんな喫茶店が見つからない。足を棒にしてやっと一軒見つけ、やれ嬉しと入ると、カウンターの女主人と思いがけないやり取りが展開した。

「お食事ですか?」「いえ、コーヒーです」「なら、呑んですぐに出てもらわないと-----」「じゃ、コーヒーはいいけど、お手洗いをお借りしていいですか」「荷物を積んであるんで入れないね」。ここまで正直な人も珍しい? 一瞬、時空がタイムスリップし、女主人の顔が、引き手茶屋の遣り手婆に重なったっけ。

 でもその後、近くで見つけた喫茶店『ハレケア』の、ガトーショコラの美味しかったこと。手作りだそうで、これおすすめ。かくて駆け足ウオーキングは、楽しいハッピーエンド。短編『風雲品川宿』(仮題)、何とか書けるかな。

 


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