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春は遠方にあり

今日は風の強い日。この風で桜はあらかた散るでしょう。

  ああ、今年はお花見もしなかった。春は来ても、われら“コロナ自粛の民”には訪れぬまま通り過ぎて行く-----とベランダから外を眺めて考えていて、ふと思い出したことがあります。西南戦争を戦った武将が、そんな感じを詠んだ有名な漢詩があったっけ----


「遠方に春は来ているが、城には未だ来たらず。食糧も尽き果て、犬や馬を食って凌いでいるが、我らは屈しない----と壮絶な七言絶句を詠んだのは、土佐出身の司令長官・谷干城(たにたてき)。西郷軍に囲まれて熊本城に五十日籠城し、死守したことで名を上げた。そう、かれの崇拝する坂本龍馬が暗殺された時、近くの藩邸から早々と駆けつけ、その最期に立ち会った人です。

 

でも、その原詩がどうだったかが、どうにも思い出せない。ネットや歴史書を漁っても分からず苛々していると、リーンとお電話。----ねえ、アベさんがマスクを2枚ずつ配るそうだけど、何アレ?」と近所の奥さんのお怒りの声。ああ、と私が口ごもってると、「あれ、まだ知らない? アベさんが-----いえいえ、知ってます。知ってはいるけど、何しろ熊本鎮台司令長官の話で頭は一杯。それにマスクのことは、とうに諦めてます。

 

そもそも花粉症の私は、コロナのはるか以前から、春にはマスクをつけてきた“マスク原住民”の一人。いつも一、二週先の分まで買うだけで、誰一人買い占める人なんていなかった。それがいきなり、店からマスクが消えたのです。

 

▲▼谷干城(たにたてき)天保8年(1837)~明治44年(1911) 高知出身の陸軍大臣、政治家。明治17年伊藤博文の要請で第2代学習院院長に就任した。下の写真は、土佐藩士時代の谷。


-----ン億枚のマスクを製造するよう業者に要請したから、今月末には行き渡るはず」と菅官房長官が宣ったのは二月半ば。でもそれから、一枚たりともマスクは見かけない。聞こえてくるのは中国人やらの買占め転売話ばかり。今月半ばになってやっと、買占めがご法度になったけど、マスクは相変わらずで、朝早くドラッグストア前に行列出来る、ヒマな人の手に-----。この“マスク無法状態”に前ッから怒ってるので、此の期に及んで何をか言わんや、です。

▲書店では品切れのため、アマゾンで購入するか図書館で借りてご拝読ください。

 

それはさておき、私は本棚や納戸に首を突っ込んで、資料を探しまくった。何だか変に気になって。ええ、気にもなるはずで、その原詩は思いがけない本に-----。何と私の著作『龍馬 永遠の許嫁(いいなずけ)』(中公文庫 2010年刊)に、引用されてたのです! あまり売れなかったから、すっかり忘れてました。

 

主人公“千葉佐那”は、許嫁だった龍馬にフラれ、独身を通して四十となるころ、学習院女子部に奉職する。その院長が、谷干城だったことで、佐那は“龍馬暗殺”の真相に迫る----。佐那が探偵役で謎を解くとは、我ながら意外でした。そこはフィクションだけど、後は全て史実。また探していた漢詩は、谷院長が口ずさみます。

 

 春は遠郊に入りて 未だ城に入らず

 砲煙 日々四辺に横たわる

 犬を屠(ほふ)り犬尽きてまた馬を烹(に)る

 屈せず三千一致の兵

 

春は城の外に止まって、未だ城の中には入って来ない。大砲の煙が四方にたなびく。食料は尽き、犬を喰らい、犬が尽きると馬を煮た。だが我ら屈せず、三千の兵は一人も脱走しなかった-----とでも。 自粛による籠城の日、思いがけなく浮かんだ詩と、自作の本でした。