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逝ける友を偲ぶ Ⅲ

2月7日、東京八重洲の居酒屋で「佐伯俊男を偲ぶ会」。金曜夕方のせいか、東京駅近くの呑み屋街は、驚くほど沢山の人でごった返し----。呼び込みの若衆が声を張り上げ、「どうッすか、お一人、二千円ポッキリ!」。コロナウイルスなんてどこ吹く風?

 

“地獄絵師”と呼ばれ、アングラ文化全盛の‘70年代に登場し、アングラを突き抜けて、国際的な地平を歩みつつあった佐伯さん。 昨年11月21日、突然この世を去ったのです。三年前の消化器系の病は完治し、「八十は超えられるかな」と言ってたのに、享年74とは。報せを聞いたのは、その翌日の氷雨のそぼ降る寒い午前。

 

すぐに支度して、横浜駅の長距離バス発着所に駆けつけ、千葉の山奥まで延々1時間半。対面した佐伯さんは眠っているようでした。

 

思えば長い付き合いでした。70年、『平凡パンチ』で華々しくデビューし、『佐伯俊男画集』をアグレマン社より出版して以来----ええ、何を隠そう、私はその小出版社の“佐伯番”編集者だったんです。


 

その画を初めて見た時の衝撃! 黒白のグロテスクな絵が目に飛び込んできて、いきなり異界へ引きずり込まれるようでした。

押入れの隙間からこの世を見る死者の目、暗い夜道を近づいてくる血まみれの死人-----子供のころに怯えたそんな悪夢や、未生の闇への恐怖が、そこに鮮やかに描かれていた。大人になるにつれ追いやられてしまうそんな妄想が、ここに鮮やかに市民権(?)を得ていたのです。

ごく日本的な図柄で、誰の心にもある“原風景”を描き出し、海外にも受け入れられる普遍性を獲得したのでしょう。

 

当時、姉の家に居候していた私は、熱狂のあまり何枚かを壁に貼ったら、「気持悪いからやめて!」と叱られ大喧嘩に。後にその話を聞いた佐伯さん、「そりゃァ、お姉さんが正しいよ」。

初めてアグレマン社に現れた時の佐伯さんは、紫色のコーデュロイのスーツに、流行りの長髪。オーラ満々の颯爽たる姿でした。会えばいつも‘70年代新宿のざわめきを振りまいて、皆に刺激を与えていたっけ。

 

 

そのうち私はアグレマン社を辞め、週刊誌の仕事に入り疎遠になったけど、佐伯さんは結婚して自然豊かな千葉へ引っ込んで、佐伯流“隠遁生活”に入ったと聞きました。 

 

復活したのは、一本の、何げな電話だったと思う。縁があったのでしょう。それからは毎年、佐伯宅の前の竹林のタケノコ掘りに招かれるようになり、いつの間にか私は、編集者から友達へ-----

 

「偲ぶ会」に集まったのは、そんな“何か”の縁で最後まで親交のあった七人。この日はひどく寒く、私などダウンとマフラーに埋まっていたのに、中にコートを着ない、颯爽とした若い女性がいた。

 

夕闇からスッと現れたその人は、ラフなバルキーセーター姿で、真っ白な美しい首を寒気にさらし、ノーマフラーにノーマスク。 「ひえっ、寒くないの」と聞いたら「寒くないです」とニッコリ。

 

何かの健康法を実践してアレルギーを治し、体質を変えてしまったと聞いています。この逆境の時、それが何よりの支えだったのでは。そう、少し度肝を抜かれたその人は、佐伯夫人の優佳さんでした。  

 

佐伯さん、そろそろさようならです。同時代の空気を吸って共に走ってきた友人が、もういないのは何とも寂しいもの。でも佐伯さんは、あの何冊もの画集の中に生きているのだから-----                 合掌

▲1972年ジョンレノンとオノヨーコのアルバム『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』にイラストが起用され国際的な話題に。