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斗南藩て知ってますか?

 

薄陽のさす梅雨の合間、延び延びになっていた呑み会へ。こじれてなかなか終わらなかった仕事が、やっと一段落したのです。

待合わせは下町散策を兼ねて、根津駅。呑む前の腹ごなしに、根津神社から裏路地へと歩くうち、『根津の甚八』なる居酒屋を発見。

「あの俳優と関係あるのかな」と呟くと、「あの根津甚八は、唐十郎が“真田十勇士”の一人の名から取ったもの」と誰かが答えた。

うーん、十勇士は、霧隠才蔵と猿飛佐助しか覚えていなくて-----。

 

今宵の呑み屋は、駅近くの居酒屋『たけもと』。評判通り、料理も酒もビールも大変美味しい。特に“鴨と万願寺唐辛子の炒めもの”は絶品で、皆の呑みっぷり食べっぷりは驚異的でした。気分はハイになって、メンバーに会津と薩摩の出身者がいたためか、話題は会津戦争へと盛り上がって-----。

ところで会津藩二十三万石は、最後まで抵抗して滅んだのは誰でも知っているけど、その後“斗南藩”となったことはあまり知られていない。それもそのはず、存在したのはたった二年足らず!

 

旧藩主松平家は、明治二年、下北半島の恐山の近くに僅か二万石の領地を与えられ、お家再興を許された-----。しかし明治四年には、廃藩置県で、青森県の一部に吸収されてしまうのです。移住した旧藩士一万三千人にとって、この二年は、下北残酷物語でした。ここは火山灰の超不毛の地。冬は零下20度になり、食料もなく、餓死者、凍死者、脱藩者が続出したと伝わっています。 

▲会津から海路でやってきた斗南藩士が上陸した青森県むつ市大湊の海岸。下北半島には、斗南藩の史跡が点在する。


▲むつ市にある、斗南藩士追悼之碑と斗南藩士の墓。▼万願寺唐辛子は京都発祥の京野菜。果肉が分厚く柔らかく、"唐辛子の王様"と言われている。

 

高校時代の同級生に、この“斗南藩”へ移住した会津藩士の子孫がいます。一応は移り住んだものの、あまりの過酷さにここを脱出し、命からがら津軽海峡を渡って函館に定住したという。

先年、私は函館で『箱館奉行所』について講演したのですが、それを伝え聞いたご本人から手紙を頂き、あの人が----とびっくり。今は会津人の会に入って、先人達の苦労を偲んでいるとか。

 

で、「斗南藩」という名の意味は-----? 同席した会津出身者によれば、北極星に由来するとか。そういえば下北半島はどこか北斗七星の形に似てますね。新領地は、その北極星の南に位置するのだと。

うん、うん----と、その時は酔った勢いで分かった気がしたけど、さて、後で考えると何が何やら。で、ネットで調べてみると__。

漢詩にある「北斗以南皆帝州」の言葉から取ったそうで、意味は“北極星より南はみな天皇の領地なり”。

しかし、その漢詩は見つからず、ただ、樺太に左遷された会津藩士秋月悌次郎の詩に、「唐太以南皆帝州」というのがあるという。

 

「唐太の南、すなわち日本国は、すべて天皇の領土である」

会津の詩人はそう詠んだ。その“唐太”を“北斗”に変え、

「同じ北斗の星を仰ぐ我らは、天皇の民であり、逆賊などではない」

との思いを託した----? そう考えて初めて、“斗南藩”に込められた会津藩の人々の思いに触れ、胸がジーンとしたのでした。

 

帰宅は深夜。乗り換えが多いせいもあり、結構遠くへ旅した感あり。翌日にはさっそく、万願寺唐辛子を焼いて食べました。