· 

志ん生は体に悪い

 

私の旧友に、ン十年築地で頑張ってきた美人おかみがいますが、移転に反対してすったもんだのすえ、豊洲に移って行きました。

 

さて、もう二十年も前のこと、この彼女の夫君を、築地の癌センターに見舞ったことがあります。たまたま同じ病院に私の身内が入院していたことが分かり、ご挨拶かたがた伺ったのです。病床で初めて会った夫君は、洒脱なお人でした。大腿骨の一部を金属に変えるという大手術の後でしたが、明るい窓際のベッドで、術後は良好だと淡々と語ってくれました(友人はこの時、不在)。

 

オッ、と目を奪われたのは、窓辺に上下二段でズラリと並べられた落語全集のC Dでした。さすが築地の旦那----と落語好きの私は急に親しみを覚え、誰がごひいきですか、と思わず問うたのです。

「いやあ、眠れない夜はねえ、枝雀とか、小三治ですか」

 と照れながら私の大好きな名を挙げました。眠れない夜は屋上に出て、夜景を眺めつつ聴くこともあると。そして最後にポツリと、「でもやっぱり志ん生ですね」

 あ、やっぱり志ん生ですか。私は思わず笑い出して、ひとしきり志ん生の話が弾んだのでしたが----。

なぜ笑ったかって。実は志ん生には、ちょっとした思い出があるのです。学生時代、盲腸で入院した時のこと。手術後まだ二、三日めの夜中、ラジオのチャンネルを合わせていたら、やれ嬉し、落語が入った。初めの何人かは普通に笑っていたのですが、最後に志ん生が登場すると、何と、傷口が痛み出したのです。

演目は『お化け長屋』あたりの長屋ものと記憶しますが、その語り口が絶妙に可笑しい。内臓を裏からくすぐられるようで、笑いが波状に襲ってきて、傷口が痛むのです。

「真っピラごめんなすって」と言うところ、粋がった下町衆は早口の巻き舌で「ピラめんねえ」とくる。玄関先でそれを繰り返していると、出て来た大家さんが「なにピラピラ言ってんだね」。

そのくだりが抱腹絶倒、縫合したばかりの傷口がヒクヒク動き、今にも内臓がはみ出しそうで、慌ててラジオを消したのでした。 

▲新宿・末廣亭

▲浅草演芸ホール

▲古今亭志ん生  ▼桂枝雀

 ◀YouTube

古今亭志ん生 コレクションBOX【長屋噺】①

火焔太鼓、厩火事、搗屋幸兵衛、

お化け長屋、大山詣りを収録


そんなことを話したら笑って頂いたので、ふと思いついたギャグが「志ん生は身体に悪い」。でもこのシチュエーションでは、何となく不謹慎な気がして、言いそびれてしまったのですが。

友人から訃報を聞いたのは、その一年後だったか-----。

その時、目に浮かんだのは、屋上でレインボーブリッジを眺めながら、イヤホーンを耳にする故人の姿でした。眠れなかった夜々、聞いていたのはやっぱり志ん生だったでしょうね。

 

先日、NHKBSの『アナザーストーリーズ』で『古今亭志ん朝』を見ていたら、映像は珍しいと言われる父・志ん生の姿が映ったので、そんな遠い日を思い出した次第です。

ただ今思うと、枝雀や小三治も“身体に悪い”系の噺家ですよね。