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ケタ違い


 先日、整骨院で電気治療を受けていると、「××会社が、三十万円の脱税容疑で捜索を受け----」とラジオから、女子アナウンサーの声が流れてきました。へえ、たった(?)三十万円で踏み込まれるのか、と驚いてたら、その日の夕刊には「××会社、三千万円の脱税」と出ています。ふーん、「三十万」は、私の聞き違いだったのでしょう、たぶん。

 

でも明らかに“あちら”のミスと思えることも、結構ありますよ。少し前になりますが、ラジオを流しつつ台所で家事をしてると、「昨夜、銀座の○○宝石店に泥棒が入り、△千万相当の宝石と毛布を盗んで逃亡-----」と女子アナウンサーが言ってます。へえ、毛布なんか盗んでどうすんの、とびっくり。そもそも毛布も売ってる宝石店とは-----と怪しむうち、アッと思いました。たぶん“毛布”は、“毛皮”の読み違いであろうと。モウフとケガワじゃ、ケタ違いですよね。でも毛布かついでスタコラ逃げるとんまな泥棒が頭に浮かび、しばし笑えました。

 

でも他人のことばかり笑ってるこの私自身、相当なツワ者で失敗談は枚挙にいとまがありません。何しろ週刊誌の仕事をしていた時分は、「そこつ大物」の異名があったほどだから。

小説を書き始めてしばらくして、焼き物に興味を持ったころの話です。ある時、よく覗きに行く渋谷の「黒田陶苑」(メトロプラザにある)のウインドウに、赤札で萩焼の八寸皿が出てました。

 

萩焼の茶碗(三輪休雪ではありません)
萩焼の茶碗(三輪休雪ではありません)

それは、十二代家元・三輪休雪と交代したばかりの、前家元の作品で、お値段は、九万八千(八万九千だったか?)円。「これは破格だ、めちゃめちゃ安い!」と興奮しました。

 あの白いふくふくとした、“正調”萩焼の八寸(24センチ)皿ですから。すぐに店内に入って、皿をウインドウから出してもらい、手に取ると、吸い付いてくるように素晴らしい。

持ち合わせはなかったけど、カードでいいと聞いて、即決しました(悪いくせです)。いそいそ木箱に入れ包み始めたお店の人に、「この値段じゃ、とても手に入りませんよね」と思わず言うと、「もちろんですとも!」と相手は得たりとばかり、「十一代の作品が、九十八万やそこらじゃ絶対に買えませんよ」えっ、ち、ちょっと待って-----九十八万やそこらって? 

 

そこで初めて私は、ゼロを一つ間違えていたと気づいたのです。九万八千円と読んで、頭にカッと血が昇り、値札を確かめもしなかった。ケタ違いと分かったとたん、マンション買って間もなくの、残金が限りなくゼロに近い預金通帳が、頭に浮かんだのでした。

この先は、私の人間の小ささが出るので言いたくないけど、「やっぱり家の者と相談してからに----」という情けない結果になりました。でも、借金してでも買うべきだった、とずっと後悔しています。

 家宝とは、身の縮む思いをした物であるべき。

「桁違い」と銘名された家宝の皿に、お客様のたびに手料理をふんだんに盛って出したら、どんなに豪奢な思いが出来たでしょう!