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桜に想うこと その3


「吉野山 こぞのしおりの道かへて まだ見ぬ方の 花を尋ねむ」

そう詠んだのは、吉野に隠棲し桜をこよなく愛した西行です。

 

 吉野の桜には、私もこんな思い出があります。十数年前の三月のある日、吉野の『桜花壇』という老舗旅館から、電話がかかりました。ご主人か番頭さんらしい練れた声で、「キャンセルで部屋が一つ空きましたが、どうしはります?」『桜花壇』とは桜の谷を見下ろす絶景旅館で、花の季節は絶望的に予約が取れません。 宿泊した客が、翌年分も予約していくから、なかなか空きが出ないのだとか。断られた私は「キャンセルが出たらお電話を-----」とダメモトで頼んでおいたのでした。

 

 その部屋は二階建ての一階で、対の間付き、夕食朝食つきで、十万円くらいだったか。 指定された日は一週間後に迫ってたけど、「ぜひ頼みます」と即答。すぐ関西の女友達に電話しまくり、たちまち私を含め四人が集まったから、お一人様二万五千円前後でしたっけ。

 

 全山、三万本の桜で埋め尽くされた真っ盛りの吉野。一度は観たかったけれど、いざそこに迷い込んだ気分は、わが筆では尽くせません。吉野はソメイヨシノではなく、古来のシロヤマザクラが主で、艶というより楚々として可憐な色気があるのです。

 「窓を見てください、月が昇りました」とフロントから電話が入ったのは、宴たけなわの十時ごろ。窓を開けると、谷を埋める闇に白々と桜が浮かび、そのはるか上に煌々と月が昇っていました。

 

ところでその日、チェックインで宿帳にサインした時、何げなく前頁をめくってみて、アッと驚いた。前日の日付で、何と「平幹二朗」とあるではないですか。 宿の人に訊いてみると、まさにアノお方が、サインしたのだとか。しかも私たちの泊まる部屋の真上の、“対の間付き十万円”でただ独り、桜の一夜を過ごされたとか。

朝は、朝食会場の広い座敷の隅で、窓の外を見つつ一人召し上がっていたと。

 

平幹二朗、昔からファンでした。お芝居もよく観ました。「幹の会」というファンクラブの会長と知り合いで、チケットをよく取ってもらったし、楽屋見舞いにも連れてって頂きました。もちろん向こう様はお忘れでしょうが、その時頂いたグレー地に白で平幹二郎と染め抜いた日本手拭い、まだ大事にしまってあります。

 その平さんが、一日違いでこの階上から、同じ桜を観ておいでだった-----

そう思うと大いに感激し、「まだ見ぬ桜」を見たような気がしました。

 

そして俳人高柳重信の、有名な句を思い出したのです。

「月下の宿帳 先客の名はリラダン伯爵」  

それをもじって、私はこう“詠んだ”のでした。

「月下の宿帳 先客の名は平幹二郎」

 

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